enlight代表の吉本利佳子です。
1984年 大垣生まれ
育ちは大阪ですが、結婚してから自分が生まれた街、大垣に住んでます。
家族は同い年の夫と娘2人(小5と3歳)。
今回は、なぜ私がイメージコンサルタントになったのか、自己紹介を兼ねて書きたいと思います。
〈幼少期〉
物心ついた時から、服やアクセサリーが好きでした。
祖母は洋裁が趣味で、お洒落な人でした。
母はバブルを経験してきた年代でもあり、家にはインポートの洋服や珍しいデザインの小物があり、幼心に楽しい気持ちで触れていました。
〈学生時代〉
中学生になるとお休みの日はお買い物に出かけるのが何より楽しかったです。
愛読雑誌は【装苑】。国内外のモードの世界を覗いては、憧れていました。
当時の友達以上彼氏未満な男の子の影響でロックが好きで、それっぽい格好をしてみたり。
中高一貫の女子校では、髪を巻いてお嬢さんな感じのお洋服を着ている同級生とは違って、私はボーイッシュでした。
友人からはお洒落だね、なんて言われていましたが、ただ周囲から少し浮いていただけだと思います。
背も高く、決して華奢ではなかったので、周りの女子と比べて自分は『太ってないのに何故ガタイがいいんだろう』って思っていました。(今となっては、骨格のせいだとわかる。私は身体に厚み、ハリのある骨格ストレート)
美大に入学してからはさらに個性が加速して、今思うとヘンテコリンな格好をしていました。美大の学生は皆とっても個性的でした。
専攻はテキスタイルデザインで、布地のデザインやプリント、織物などを勉強しました。
〈アパレル時代〉
『好きなものを好きなように着るのが正義。』という私のファッション観は、新卒で就職したアパレル会社で音を立てて崩れました。
その会社は国内外の高感度な子供服がメインで、お母さん用に婦人服も扱うセレクトショップを展開していました。
輸入品、オリジナル商品もある、今考えても色褪せない魅力のある本当に素敵なお店でした。
イタリア製の靴、花びらみたいに繊細なフランスのワンピース、大人顔負けに加工されたデニムと果物みたいな色のベルギーのニットなど。
見ているだけでは販売員が務まりませんので、自分なりにお洒落をして店頭に立つ毎日。
ところが私は来る日も来る日も先輩に『ダサい』と叱られました。
『家に帰って着替えてこい』
と言われたこともあります。
私は弁解の余地なく、思いっきり『ダサかった』のです。でも努力の仕方がわからない。
だって、『好きな服を好きなように着る』っていうことしか知らなかかったから。
『似合うとは』『オシャレとは』『センスとは』という問いに初めてぶち当たりました。
そんな風だから、お客さまにも『好きならどうぞ』なスタンスでしか接客できない。売れるわけがありません。
先輩に呼び出されて話したことを、今でもはっきり覚えています。
先輩 “あんたさ、ここに何しに来てるん?ほんまに服が好きなん?そう見えへんけど。”
私 “はい、好きです。でも、何をどう着たらいいか、もうわかりません。”
先輩 “あんたさ、人からどう見られてるか考えたことある?自分の外見的な長所は?言うてみ。”
私 “(・・え?長所?)・・・わかりません。涙 特別良いところなんか無い気がします。”
先輩 “あんたのいいところは、爽やかで、悪いことしたことありませんっていう感じの透明感ちゃうん?すっぴんでも可愛いし。着る服もそうしたらええねん。背も高いし、勿体ないで。”
この先輩が言ってくれたことは後に顔タイプ診断で判明した『タイプ別の魅力』にバッチリ当たってるんです。(私は顔タイプがフレッシュ)
先輩は分析すると顔タイプクール、骨格ナチュラル、170㎝の長身に腰まで届くウェーブヘアー。
最高に格好良くて、桁違いに売る人でした。私に言ってくれたようなことを、顧客様に提供できる人だったんです。そりゃ売れるよ。
私には、『人から自分はどう見えているか』という視点がすっぽり抜けていたんですね。
当然、人様に『魅力をお伝えして、良さが引き立つようスタイリング』して差し上げるという視点もない。
言ってもらったことを自分なりに表現しようとして試行錯誤し、少しずつマシにはなったものの、確かなものは掴み切れないまま時は過ぎ。
私は結婚して退職することになりました。
後半に続く。
後半は主婦、アメリカでの子育て期を経て、イメージコンサルティング(骨格診断、パーソナルカラー診断、顔タイプ診断)との出会い。起業するまでを書きたいと思います。
読んでくださって、ありがとうございます。

